分銅惇作氏は五城目出身である。作詞を氏に依頼したのは男鹿南秋出身の中央で活躍している方ということであった。また初代PTA会長の故沓沢達雄氏が秋田中学(現秋田高)で同級生だったということもあるという。
作曲は「大いなる秋田」の作曲者として県民に親しまれている石井歓氏に依頼した。父石井漠氏は舞踊家で秋田県の人である。
昭和54年12月下旬、分銅氏は西高を訪問され、翌55年1月1日詞は完成する。さっそく石井歓氏に曲をつけていただき、同年3月6日校歌の初練習が行なわれた。修了式に歌えるように校内に曲が流され、創立初年度にして生徒は自分達の校歌を歌うことができた。
分銅氏の特別寄稿「ことばの十字路」(「松籟」第2号昭和56年3月20日発行)の中から、西高の校歌が生まれ出た過程が述べられている部分を、ここに紹介したい。
校歌の作詞を依頼されて、西高を初めて訪ねたのは一昨年の暮れ、冬には珍しく雪もなくよく晴れ渡った日だった。校門を入ってまず驚いたのは緑の松林に囲まれた校地の広さとモダンな明るさだった。校長の佐藤先生に案内されて屋上に立ったときは、太平山の雄大な稜線が間近かに迫るように仰がれるのに感動した。帰途、出戸浜に立ち寄ったが男鹿半島を遠望しつつ冬の海の残照の美しさに身動きもできず佇んだ。
校歌の構想はその晩にできあがった。 校長先生が熱情をこめて説明してくださった校訓の「豊かな心」「調和」「創造」の三つのことばに、私がふるさとの自然から受けた三つの印象がおのずから結びついて三節にまとまったのである。それは久しぶりに帰郷した私の心が少年の日のように素直に弾んでいたからでもあろう。私は自分が西高に入学を許可された一生徒になった気持ちで詞を練った。東京へ戻って堆敲を重ね、浄書したのは年が明けた元旦の朝である。 1980年代の事始めとして、私は襟を正して書斎の机に向かった。それに石井歓先生が素晴らしい作曲をしてくれたのである。
なお、分銅氏には、校歌の作詞が縁で、昭和56年7月2日に、「文学と読書」と題し、全校生徒に講演していただいた。
秋田西高校設立準備事務局が設置されている時に一般公募をする。20点ほどの応募作品の中から秋田養護学校の佐藤勇先生の作品が選ばれたものである。
校章は、中心に「西」をすえ、外側に県のシンボルである「蕗」を配し、緑の新鮮さを表わすとともに、教育方針(豊かな心、調和の姿、創造の道)を表わしている。 また、三本の「ペン」は知性、品性、体力に優れた健康で調和ある生徒の成長、発展を念願したものである。
校章を中心にすえて地は赤紫色とした。 赤紫色はスクールカラーである。
新しい息吹き、新しい時代への意気込みを赤で表現し、単なるパッションではなく、理性的なものに支えられた情熱を表現するために、くすんだ落着きのある色とした。 縦60cm、横1m、金糸・銀糸がふんだんに使われた豪華なものである。
校旗樹立式は昭和54年7月2日に行なわれた。